不定期に更新してしまう sea_is_back のブログです
気持ちの整理を図った文章です。
Base Ball Bearというバンドがおります。今年でメジャーデビューから10周年、結成から15周年の、4人組のロックバンドでした。
メンバー構成はボーカルギターと作詞作曲を手掛ける小出祐介、ギター湯浅将平、ベース関根史織、ドラム堀之内大介でした。
先日ギターの湯浅将平が脱退しました。
この件が発表されたのはツアー直前の3月2日のことで、サポートを迎えて全8公演のツアーは無事終了しましたが未だにファンの間ではもやもやとした気持ちだったり憤りだったり悲しみだったりが拭えないという雰囲気が漂っていると思っています。
この話になる度、僕はダサいとは思いつつ"効いてないアピール"みたいなのを毎回してしまいます。
湯浅さんが脱退してもベボベはベボベだ、とか続けることを選んでくれたのが嬉しい、とか。
勿論脱退は死ぬ程悲しいです、実際にサポートとしてフルカワユタカさんを迎えてのライブを見て、やっぱりめちゃくちゃかっこ良かったけど同時に「本当にもういなくなってしまったんだな」という実感も完全に湧きました。寂しいです。
でも、本当にこれからのBase Ball Bearは適切ではないと思う言い方ですが、無限の可能性に満ち満ちていると思っています。
先日バズってた(お父さんが言ってた、とか、テレビで芸能人が言ってたじゃなくて、バズってた、だとどうにもしょうもない感じが出て見栄えが悪くて申し訳ないですが)ツイートで、「大切な物を失くしちゃって悲しかったけどおばあちゃんに「失くなった物や人はその役目を終えたからいなくなったんだよ」と言われて考え方が変わった」みたいなツイートを見ました。
当事者ならまだしもただ見て、聞いてただけの人間が言うのはとても失礼で不躾だし当人はそんな気持ちは微塵もない(脱退理由とか見れば尚更ね)かと思われますが、湯浅さんの脱退はある種役目を終えたから、なのかなと都合よく解釈しました。
思えばBase Ball Bearは昨年11月の「C2」でもうフルアルバムは6枚目です。
根底にある「4人だけで鳴らされた音」というある種の呪いを抱えたまま毎回全く違ったアプローチでアルバムは作られていたと思います。
1st「C」は、良くも悪くもNUMBER GIRLやスーパーカーを引き合いに出されることの多かったインディーズ時代の音楽性からの脱却の為、サウンドとしてはルーツの一つであるXTC等のニューウェーブを大きく取り入れ、印象的なギターリフで引っ張りつつ4つ打ちドラムで強制的なまでの縦ノリのグルーヴを生み出し盛り立て、一方で詩は繊細だったり美しい言葉でどこまでもボーイミーツガールな世界を描き出し、これ以上ないくらい青く風通しの良い涼し気なメジャーデビューファーストフルアルバムであったと思います。
続く2nd「十七歳」は、プロデューサーにagehaspringsの玉井健二氏を迎えての一気にポップへ傾倒し大きくひらけた作品で、17才、ドラマチックなどで現在まで続くBase Ball Bearのパブリックイメージでもある「青春!」とか「夏!」みたいな感じを印象づけた作品だと思います。
しかし、アルバム全体から受け取る印象はそんなことはなく、全体的にボーカルの表現力が大きく向上して「愛してる」や「真夏の条件」で見せる艶やかさ(艶っぽさ)や、「青い春.虚無」での10代っぽい葛藤をそのままサウンドに表したかの様な激しさ、さらにはラスト「気付いてほしい」では教室の隅で机に突っ伏している少年の様な気持ちを歌い、アルバムを終えます。色んな悩みを抱えた10代にそれぞれにそれぞれの方法で寄り添い語りかける様なアルバムだと受け取っています。
3rd「(WHAT IS THE) LOVE & POP?」は、あまり好ましくない表現かもしれませんが「ロキノン系」としての到達点というか、ジャキジャキのギターロックに乗せた内省的な詩が散見され、ラストはシークレットトラックの「明日は明日の雨が降る」でも「止まない心の雨」というフレーズで綴じられ、「答えの出なさ」というか「終わらない自問自答」を思わせる暗さを纏ったアルバムだと思います。
そして次は3.5thと名打たれたセルフプロデュースの「CYPRESS GIRLS」「DETECTIVE BOYS」の2枚が制作されました。
「裸のBase Ball Bear」的な面もありつつ、以降の3作の断片が垣間見える様な実験性にも富んでいる作品だったと思います。
これを経ての4.0th「新呼吸」は、これまで以上にシリアスでリアルな作品で、シングルで見せた伏線を回収する様な作風にも磨きがかかり、収録曲各曲に時間帯が割り当てられた「一日の流れ」というコンセプトも相まって「アルバム」であることに非常に意味と意義がある作品だと思います。
5th「二十九歳」は、前作から3年近くのスパンが空きましたがその甲斐もあったという様な、ボリューミーで濃いアルバムだと思います。蔓延する風潮に対して斬りかかった上で、「じゃあどうする、何を考える」と問いかけたり、前作で表現した「毎日ははじまり続けていく」ということをアップデートした様な「人生は最高の状態や最悪の状態でもそこで幕が下りて終わったりはしない」という、続いていくという圧倒的にメッセージが詰まりまくった大好きな作品です。
最新作6th「C2」は、「成熟」という言葉が似合う、バンドとしての強度をより増したからこそのアダルトな魅力が滲む素晴らしいポップアルバムだと思います。
それと同時に時代やシーンに対して明確に「戦っていく」姿勢を叩きつけた「これから」を意識させる作品だと思いました。
僕の言葉が拙いので伝わらないかもしれませんが本当に毎回誰にも(自分達にも)似てない、違った魅力に溢れた作品群だと思います。
だからこそ、この次、というのがとても重要で、そこでドラムでもなく、ベースでもなく、ましてボーカルギターでもなく、ギターが脱退、というのは最悪な言い方ですが転機としてはこれ以上ないくらい「丁度良いもの」だったのではないでしょうか。
小出さんは「二十九歳」の時に最初アルバム名をセルフタイトル「Base Ball Bear」にするつもりだったそうでその時はコンセプトなどがサカナクションと似通った為、内容も見直し、ある種のセルフタイトルとして当時のメンバーの平均年齢であった「二十九歳」を付けました。
そして「C2」の製作時にもアルバムタイトルとしてセルフタイトルが上がったそうです。結果的に「Base Ball Bear」と名付けてしまうともうその作品が「Base Ball Bear」を定義するものとなってしまう為、製作中リンクする部分を感じた1st「C」の続編の様な意味合いを込めた「C2」と名付けられました。同時にセルフタイトルを付けるタイミングはもうラストアルバムくらいしかないとも語りました。
今までBase Ball Bearは4人で鳴らすということにこだわり続け、生の音にこだわり続けて来ましたがそれは裏を返せば4人が鳴らした音であればそれがBase Ball Bearということであり、どこまでも可能性に満ちていたと思います。
ですが6thはとてつもない名盤であると共に「これ以上をどうやるのか」ということが浮かぶ程「描き切っている」アルバムに聴こえました。
3人になり、ライブで小出さんは「次にお会いする時は三人かもしれないし、また同じ様にサポートを迎えた四人かもしれないし、何十人というストリングス隊を迎えた大所帯かもしれない」と冗談っぽく語りましたが、その通りで、とてつもなくわかりやすく色んな道が出来た状態になっていると思います。
こんな今だからこそ次のアルバムは3人体制の、新たなこれからを提示するための「Base Ball Bear」になるのではないかと思ってます。
散々長々書きましたが正直別にタイトルが何になろうとどうでもよくて、アルバムが出て、それが素晴らしいもので自分が心の底から良いと思えるものであればもう言うことなんて何もないんですけどね。
ずっとなんか引っかかってるというか、まとまらない思いをなんかある度ちょこちょこ考えてたのが煩わしかったのでちょっとまとめてみたんですけどまとまってないですね。ダメだ~
いるかわかんないけど最後まで読んでくれた方、ありがとうございます。
頑張ります、では機会があればまた。